物事がシンプルにならない理由

私はシンプルなものを好む。けれども、世の中シンプルでは決済がおりないことが多いようだ。通常、費用というものに対して価値を認めて対価を支払うわけだけど、この価値というものが多くの場合、「量」の観点で計られることが原因のように思う。

「量」で考えた場合、製品は多機能になり、サービスは過多になり、デザインは演出過多になる。それはすべて量で見るからだ。

かつては何でも機能的にもシンプルだったはずだ。クーラーはエアコンではなく冷房だったし、冷蔵庫は冷凍庫とは別だった。しかし、「それだけ」では成り立たなくなるのは必然だった。機能に対して価値が発生していたわけで、より価値を生もうと思えば機能を増やす他ない。機能が追加されることにより利便性が向上する。確かに機能と価値というものは連動していたように見えていた。ある時期までは。

いまや、機能やサービスを付加することによって得られる利便性の向上よりもむしろその機能を使いこなすだとか、理解するだかいう情報活用コストの方が上回っている。利便性による価値向上の閾値を超えてしまったのではないかというのはすでに言い古されているように思う。

価値を「量」でみるのではなく、「質」で見るようにならなければ、いつまでものこのパラダイムから抜け出せない。しかし、厄介なのは「量」は万人に一様に見えるのに対し、「質」は捉える側の価値観によって変動するということだ。つまり、誰も「質」を客観的に計ることができない。漆塗りの器をもって、その質を誰もが一様に判断することができないように。

仕事そのものに対しても同じことが言えないだろうか。タイムカードを押し何時から何時まで残業を何時間、これらは数値という客観データとして計測できる。しかし、いまやアイディアや企画、プログラミングだとかデザインだとか、時間で計測できない仕事の方が多いのではないか。にもかかわらず、いまだに工場仕事のパラダイムで仕事に従事せざるを得ないのは、「量」しか物差しがないからに他ならない。

「量」に対してではなく、「質」を認めてその対価を決済する、その判断ができるようにならなければ、いつまでもたっても複雑さに飲み込まれる。結果、時間がなく、忙しく、豊かな生活などできないだろう。