疲れマネジメント

Photo by Phil Romans

私はとても疲れやすい人間だと自分のことを認識しています。常に疲れない人になりたいと思っているのですが、どうにもなりません。もっとも日本人のほとんどは疲れに自覚的であるにもかかわらず、負荷のコントロールができないでいるようですが。

一体疲れとはなんなのでしょう?

疲労の科学によると下記のような定義づけです。

疲労”とは”身体的あるいは精神的負荷を連続して与えられたときにみられる一時的な身体的および精神的パフォーマンスの低下現象”

つまり、連続する負荷が疲れを引き起こしている原因です。この負荷を自分でコントロールできれば疲れることはないのではないか。そう私は考えました。では、負荷を自分でコントロールするとはどういうことでしょう。

自律した働き方。まわりに合わせるのではなく、自分に正直に自分のペースで働く。ここに答えがありそうです。つまり、疲れたときは休む。そうでないときはガンガン仕事するといったオンとオフの切り替えを自分で行うということです。これは作家とか芸術家、研究者のワークスタイルですね。サラリーマン的でない生き方のように思えます。サラリーマンだと「今日は疲れているから出勤するのやめよう」とはいきません。疲れた顔して電車に揺られるしかないわけです。

疲労疲労感は違う

また、先ほどの疲労の科学から。

一般に、”疲労”は”疲労感”とほぼ同義語で使われている。すなわち、疲労は主観的な表現と解釈される傾向にある。
しかし、実は”疲労”と”疲労感”とはまったく異なるものである。たとえば、ゴルフによる疲労はほぼ同じ距離を歩くにもかかわらずスコアによって疲労度がまったく異なる。

疲労感は「意欲」や「達成感」に大きく影響されるということです。意欲を高く保てる仕事は、疲労状態にもかかわらず疲労している感覚が麻痺するので、どんどんこなすことができるわけですね。ワーカホリックというのはそういう意欲に満ち満ちた人たちのことです。確かに意欲が高まっているとき(モチベーションがあがっているとき)には疲労しないというのは経験的に誰もが理解できるでしょう。

ただし、いくら意欲があったとしても疲労はします。それは摂理です。そして疲労は意欲を減退させます。疲労は身体の異常を知らせてくれる生体アラームだというのはそういうわけです。

勤め人は完全に自由に自分の時間を使うことのできません。負荷の量を自由にコントロールできないわけです。ゆえに最終的に意欲を失ってしまいます。意欲を失ってしまうと回復には大変なコストがかかります。組織は意欲を減退させない仕組みについてもっと考えないといけないということでしょう。

しかし、組織がそのように正論で動くことはまれです。結局は自己責任・自己管理。警報が出ているのに無理してさらに意欲を減退させて、結果うつ病となったとしても誰も助けてはくれません。今日は疲れている。そういう日もある、と自分を納得させてまた明日がんばればいいんじゃないでしょうか。自分へ。